加計呂麻島花富(けどみ)集落
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作成日時 : 2009/08/06 12:36
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今日8月6日は広島、9日は長崎の原爆記念日です。そして間もなく8月15日を迎えます。1945年から数えて今年が64回目の第2次世界大戦敗戦記念日です。私はこの日を「終戦記念日」と呼ぶことに少々疑問を感じていて、必ず「敗戦記念日」と書くことしています。
え〜、今年の夏は天候が不順で、野菜など農作物の出来具合が心配なのですが、今月前半はそれを少し忘れて、戦争で犠牲になった方々を、島旅流に美しい島の自然を思い浮かべながら追悼し、平和を祈念したいと思います。
ちょっと調べてみましたら、テレビで毎年放映される日本武道館での「全国戦没者追悼式」ですが、あれが始まったのは1952(昭和27)年のことでした。この年4月28日に対日講和条約が発効し、日本が再独立することになったのを機に、吉田茂内閣が5月2日に新宿御苑で、政府主催の「全国戦没者追悼式」を行なうことを閣議決定したのです。最初は8月15日ではなかったのですね。
それから約10年後の1963(昭和38)年8月15日、第18回敗戦記念日に「第1回全国戦没者追悼式」が日比谷公会堂で行われました。この年の追悼式がいろいろな年表でも「第1回」とされています。政府は池田勇人内閣でした。この間の10年は政府主催の追悼式はなかったようですね。
翌1964年8月15日の第2回追悼式は、靖国神社境内で行われました。う〜ん。そして、1965年の第3回以降は日本武道館(1964年に完成)が会場となり、これが現在まで続いているのです。
ところで、全国戦没者追悼式で追悼の対象になるのは誰かといいますと、講談社版の「昭和2万日の記録」によりますと、「日中戦争開始以後の民間人を含む戦没者310万人を対象とする」とあります。ネット上で検索すると「第2次世界大戦で戦死した旧大日本帝国軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下などで死亡した一般市民約80万人」(ウィキペディア)とあります。合計数は同じですね。戦後間もなく内務省(1947年12月31日に廃止)が発表した数字は「第2次大戦の戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人」とあります。まあ戦没者の正確な数字は把握しようがないでしょうねえ。それほど膨大な数にのぼる人々が戦争で命を失った、ということです。
奄美諸島を旅していますと、この美しい海域で貨客船が何艘かアメリカ軍の攻撃を受けて沈没し、大量の犠牲者を出していることに気づきます。たとえば富山丸や嘉義丸(かぎまる)ですね。この犠牲者たちは「戦没者追悼式」では追悼の対象になっているのだろうか、と少し気になります。
今年2月28日(2009年)、テレビ朝日系列で放映された「朝だ!生です旅サラダ」という番組で、ゲストとして登場した映画監督の井筒和幸さん、あの『パッチギ!』の井筒監督ですが、彼が奄美大島を訪ねるのを見ました。
井筒さんは奄美大島のタンカン農家を訪ねたり、奄美市の居酒屋で飲んだり歌ったり、そして三味線屋を覗いたりするのですが、彼の奄美訪問のメインテーマは、加計呂麻島に行くことでした。
じつは、みなさんもよくご存知の「十九の春」という歌のルーツが加計呂麻島にあったというのです。この歌は、田端義男さんが歌ったものが有名ですが、沖縄民謡にもありますね。井筒さんが訪ねたのは田端さんの歌のルーツです。ここにもう1人のゲスト、女性歌手が加わります。奄美で「唄者(うたしゃ)」と呼ぶ島唄の名手、朝崎郁恵さんです。朝崎さんは今は東京にお住まいですが、加計呂麻島の南岸にある花富(けどみ)集落で生まれ育ちました。
彼女のお父様、朝崎辰恕(たつじょ)さんは鍼灸師でしたが、島唄も三線(さんしん、三味線のこと)も名手でした。その辰恕さんが、1943年5月26日、自宅前の浜に何体もの死体が流れ着くのを目にします。それはアメリカ軍の潜水艦に魚雷攻撃を受け、奄美沖で撃沈された「嘉義丸」の乗客たちでした。
嘉義丸は大阪から沖縄に向かう途中でした。関西地域に移住、あるいは出稼ぎに行っていた奄美、沖縄の人々が、敗戦間近のこの時期、本土の日増しに激しくなる空襲を避けて故郷に帰るために乗船していたのです。この沈没による犠牲者は321人、その全員が民間人でした。
朝崎辰恕さんは生存者からこの無残な事件の話を聞き、死者を悼む「嘉義丸のうた」という曲を作りました。この曲に新たな歌詞がつけられて、田端義男さんの歌う「十九の春」が生まれたのだそうです。
番組では、朝崎郁恵さんが花富の浜で、井筒和幸さんをたった一人の聞き手にして、三線を弾きながら「嘉義丸のうた」歌いました。心にしみるいい曲でした。残念ながら著作権の関係で、ここに歌詞を引用できませんが、たとえば田端さんが歌われた歌詞は「うたまっぷ.com」(色文字をクリックすると該当ページが開きます)でご覧になれます。また、朝崎辰恕さんの「嘉義丸のうた」の歌詞の一部は「戦争を語り継ごう」の「嘉義丸のうた」に掲載されています。
私は残念ながら花富集落にはまだ行っていません。このページに掲載した2枚の写真は、私が2008年に加計呂麻島南岸の於斉(おさい)港から、対岸の与路(よろ)島に渡ったときに、船上から撮った加計呂麻島の南岸と海です。海はあくまでも青く、山々の木々は深い緑に覆われています。このような美しい場所でも、戦争の惨劇は起こるのですね。朝崎さん父娘が暮らした花富集落は2枚目の写真に見える砂浜あたりかと思われます。
年表をパラパラと見ていましたら、政府は1982(昭和57)年に8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とすることを閣議決定した、とあります。しかし政府がいう戦没者だけが戦争の犠牲者ではありません。私たちは戦闘や空襲、原爆によって亡くなったことが明らかな戦没者と合わせて、「嘉義丸」の乗客のように“戦争がなければ死ぬことはなかったはずの多くの犠牲者”も追悼しなくてはなりません。
次回は加計呂麻島の呑之浦(のみのうら)で、平和を祈りたいと思います。
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